甲斐犬の近代史

昭和十年の二月、北白川宮殿下は、甲府四十九連隊を観閲しました。
その折、
犬好きの妃殿下の要望もあり、舞鶴公園の広場で甲斐犬をご覧になりました。この写真はその時の記念写真。妃殿下には、寺田七男さんが飼っていた甲斐犬をさしあげたそうです。
大正時代に、
オオカミとの繁殖が試みられました。グレートデン・土佐犬・独ポインター・ブルドッグ・日本犬を狼舎に、
次々にいれてみましたが狼に喰いつかれたり、犬のほうが腰をぬかしたりしてしまい、
結局は交尾までには至らなかったのですが、甲斐犬オス1才と、メス狼(1.5ヶ月)を同居させた。やがて狼は8貫と甲斐犬4.2貫の2倍にもなったが、食事のときケンカをしても「狼、甲斐犬におよばず」で、甲斐犬のほうが強く、2年後のシーズンに交配に成功しました。

(右写真の左:甲斐犬オスと右:狼メス)
新狼犬の誕生。
甲府動物園小林承吉さんは、
狼と犬の研究に役立てたいと、
園長をしていた甲府動物園で
飼っていた満州狼と、甲斐犬を交配されて、
新狼犬を誕生させました。白っぽい子が狼に似た子でした。
写真は、その新狼犬たちです。性質には狼の特性を持っていたようで、
猛獣を扱う技術を得ている人間でないと、
飼ってはならないと、
後に小林さんは忠告しています。

甲斐犬物語 1

甲斐犬物語 1

猟師と一心同体 古武士の風格漂う 山梨日日新聞「甲斐犬物語 1」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。

昭和五十六年十一月の展覧会で”ミスター甲斐犬”に選ばれた「小鉄」の勇姿

一代一主、つまり一人の主人にしか服従しないと言われる甲斐犬が愛犬家のあいだで人気を集めている。

南アルプスの猟犬として長期間、山梨の山岳地帯生まれの純血を貫き、天然記念物に指定されている甲斐犬の歴史は古くて新しい。

秋田犬など大柄な日本犬やセントバーナードなど華やかな洋犬と比べて地味な甲斐犬は熱烈な保護者、愛犬家たちによって引き継がれ、最近では北海道犬とともに地域性を残す数少ない犬種として脚光を浴びている。

イヌ年にちなんで甲斐犬のルーツと現状を探ってみた。

甲斐鰍沢宿(現在の南巨摩郡鰍沢町)は江戸時代から昭和初期ににかけて富士川舟運点として栄えた。 峡南地方最大の商業地域で、近隣の村から物資を求める人々が集まった。

その中でニホンカモシカ、キジ、イノシシなどを追う屈強な漁師たちの姿もあった。

猟師たちは獲物を鰍沢宿の商人に売り、米、みそ、しょうゆ、酒を求めて民家に立寄った。

その足元には必ず精悍な黒っぽい虎毛の犬が控えていた。

ピンとたった耳と尾。厚い胸とくびれた腰。跳躍力を秘めた四肢。

全身を覆う虎模様の黒褐色の胸毛から、主人以外の他人に対しては警戒心を解かない鋭い目が光る。

荒々しく山岳地帯の猟に生きる猟師たちと、一心同体である。

この無気味な容姿だけで村の犬など寄せ付けない雰囲気で、妖気(ようき)が漂い、もし他の犬が近づくものなら一殺のうちに倒す風貌を持っていた事を思い出す」 これは 少年時代を鰍沢で過ごしたという富山医科大事務局長の早川敬明が甲斐犬愛護会の発関誌に投稿した随筆「甲斐犬雑感」の一節である。

早川はさらに「山から出てくる人々は大衆雑誌の主人公のような古武士の風格によく似た無愛想な犬ばかり連れてくるものだと子供心に強く感じた」とも書いている。

昭和初期、南アルプスの猟師たちが鰍沢宿に連れて来た犬は、まだ「猟犬」と呼ばれるに過ぎなかった。 この犬たちが「甲斐犬」と名付けられるのはもう少し後になる。

甲斐犬として、その名を世にとどろかす以前の南アルプス一帯の猟犬の優秀性は古文書にも記されている。

江戸時代、徳川幕府の狩り全般を受け持つ雑司ヶ谷御鷹部屋所属の鷹匠だった中田家に伝わる古文書に当時、御鷹部屋が担当した猟犬買上高、猟犬調査の項目がある。 この中に「甲州巨摩郡、小林藤之助支配所。

江戸より三十八、九里、芦倉村(現・芦安村)同平林村(現・増穂町)。

右村々猟師格別多く宜犬御座趣に候」と記されている。 これは、南アルプス山ろくから鰍沢宿に下りてくる猟師たちに、ぴったりと寄り添う「古武士のような犬」を指している。

格式ある御鷹部屋が太鼓判を押した犬であった。 山梨にこのような素晴らしい犬がいたのに明治、大正の間は文明開化に歩調を合わせた全国的な洋犬ブームで脚光を浴びることはなかった。

この空白の時代が山梨を原産とする甲斐犬の神秘性を一段と増殖させる理由の一つにもなる。

(敬称略)

甲斐犬物語 2

甲斐犬物語 2

犬好きが甲府で遭遇 新種探しへ”二人三脚” 山梨日日新聞「甲斐犬物語 2」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。 生後3カ月の甲斐犬。いたずら盛だが、既に甲斐犬とくゆうの鋭い動作を見せる (中巨摩郡玉穂むら成島、早川源一さん飼育)

昭和4年3月、まだ40歳を過ぎたばかりのの検事が横浜地検から甲府地検に赴任した。 後に甲斐犬愛護会の初代会長となる次席検事の安達太助である。 当時の検事といえば地方都市に過ぎない甲府市民にとっては近寄りがたい存在でもあった。 ところが安達は、人間味のある趣味を持ち、それを通して市民の中に溶け込んでいった。 安達は自他共に認める犬好きだったのである。 昭和9年、甲斐犬が天然記念物に指定されたことを記念した山梨日日新聞社の「甲斐犬特集号」に犬好きの理由を「君はなぜ犬が好きか」と聞く人があったなら「僕は好きだから好きなのだ」と答えるより外はない。 (中略)子供の時から無条件で犬が好きであったが、反対に猫は嫌いであった」と書いている。 しかも単純に犬を可愛がるだけではなく、犬に対する知識も本格的だった。 特に我が国の伝統的犬種であるの日本犬を愛していた。 犬好きの安達は横浜時代からわが国の犬事情に不満を抱いていた。 その不満は愛犬家の主流が洋犬、つまり海外から輸入された犬だったからである。 三百年にわたる鎖国が解かれ、明治初期の風潮が日本を覆い、愛犬家の間でさえ洋犬が最高のものとされた。 安達が愛する日本犬は大正の世に入っても不遇で、大都市などでは街角でも日本犬の姿は見ることができなかった。 前任地の横浜もおなじで消えゆく日本犬に心を痛めていた。 そんな時、横浜から甲府へ転任が決まった。 横浜から甲府への移動はポスト的には不満かもしれない。 ところが「山梨に行けばまだ優秀な日本犬に遭遇できるかもしれない」と犬探しに胸をときめかせた。 安達が腕まくりの意気込みで赴任した甲府には心強いアドバイザーがいた。 甲府市立動物園の園長の小林承吉である。 同動物園は大正八年、上野(東京)、京都動物園に次いで全国でも三番目に開園した歴史ある動物園でもある。 小林は東八代郡八代町出身で、東京・麻生獣医大で獣医学を学び、甲府駅前で家畜病院を開業、園長就任前は同動物園の嘱託獣医を担当していた。 安達の甲府不妊以前から、時折、病院に持ち込まれる虎毛の日本犬に興味を抱いていた。 そして南アルプスを中心とする県内の猟師たちが飼っていた優秀な猟犬とオーバーラップさせるまで「神秘の犬」の原産地に着眼していた。 赴任当初の安達は、もちろん小林の存在を知らなかった。 しかし甲府に赴任して間もなく、甲府市内で探し求めていた新種の日本犬と遭遇、小林に協力を求める。 この時からたりの目指す犬が一致、後に甲斐犬と命名される甲斐の日本犬探しがスタートする。 (敬称略)