甲斐犬物語15

甲斐犬物語 15

本家争いにまで発展 歯車狂わせた利害関係 山梨日日新聞「甲斐犬物語 15」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。

(展覧会で審査を受ける甲斐犬、昭和四十年代に入ると甲斐犬は全国に普及した)

 

猟師や愛犬家たちの努力で、甲斐犬は明治維新を契機に始まった洋犬流入による雑種化と、第二次世界大戦中の動物の大量虐殺による絶滅を免れてきた。 二つの機器を乗り越えた甲斐犬は戦後、素晴らしい反映を続けた。 戦後しばらくは、まだ県内の一部愛犬家が、県外では本格的な日本犬愛好者の間でしか興味は持たれなかったものの、甲斐犬本来の特性は一般愛犬家にも徐々に浸透していった。 甲斐犬愛好家は県内ばかりか、九州、東北まで広がる一方、保護活動が功を奏して絶滅、雑種化の危機を完全に回避した。 神秘性を備え、飼い主に忠実で、愛玩用にも、狩猟にも、番犬としても持ち前の特性を発揮する甲斐犬の人気はますます高まった。 愛犬家の間では「釣りはヘラ(ヘラブナ)に始まって、ヘラに終わる」という太公望の格言をもじって「犬は甲斐犬に始まり甲斐犬に終わる」とさえ言われる。その人気はペットブームで拍車がかかった。 昭和六年、僅か十二人でスタートした甲斐日本犬愛護会(現甲斐犬愛護会)はペットブームの起こった昭和四十年代になると規模は拡大の一途をたどり、かつては県内の名士、有力者会員構成も開放的、庶民的なものに変容していった。 底辺の拡大は甲斐犬の普及という面では大きなプラス面となった半面、愛犬家同市の意見の対立を生んだ。 昭和四十五年、それまで甲斐犬愛護会の幹部でもあった中巨摩郡白根町在家塚の中込重平(77)は同じ甲斐犬愛護会の名称で別団体を旗揚げした。 長い間、一枚岩の団結を誇った愛護会に発のトラブルが起きた。当時も幹部役員で現愛護会会長の小林君男は「あちら(中込)は会を除名になった人。個人の名誉のため除名理由は言わないが、問題にならない話と無視した。 一方、中込は「愛護会は四十四年に解散宣言をしている。うちの会は正当なもの」と主張して、回の運営を続行、愛護会名で血統書の発行を続けた。 対立はその後もエスカレート、四十九年には小林側が甲府地検に愛護会の名称使用と血統書発光禁止の仮処分申請を提出、本家争いは法廷にまで持ち込まれた。 結果は小林側の主張を全面的に認める形で若いが成立、本家争いそのものは決着がついた。 しかし中込は同じ年、今度は甲斐犬保存会という名称で甲斐犬保護団体を設立、中込の引退後は山梨市矢坪の小泉祐啓(66)が会長職を引き継ぎ、現在も独自の展覧会を続けている。 県内で甲斐犬展を開く団体は愛護会、保存会のほかJKC(ジャパン・ケンネル・クラブ)山梨連合会=甲府市中央一丁目、会長・田中誠(67)がある。 小林、小泉、田中はそれぞれ完全に無視している。互いに「話もするのもいや」というのが実情だ。 しかし甲斐犬に注ぐ愛情は一致している。 「甲斐犬は日本犬の中でも最高の犬」(小林) 「良い犬は良い」(小泉) 「素晴らしい性能を持っている」(田中) と声もはずむ。 同じ目的を持ちながら、どこでどう歯車が狂ったのだろうか。 この疑問に対して、ある愛犬家は「甲斐犬が脚光を浴びると同時に金もうけの道具にもなるようになった。 甲斐犬に限らず、いい犬、悪い犬を値段で決めるようになり、ペットブーム以前はあくまでも保存と愛護が目的だったのが、利害関係が入り込んできた」と苦笑いする。 もしそうだとしたら甲斐犬の方こそいい迷惑である。   (敬称略)