甲斐犬物語14

甲斐犬物語 14

画期的な交配に成功 戦時で撲殺、結末哀れ 山梨日日新聞「甲斐犬物語 14」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。

(甲斐犬とオオカミの交配でうまれた”オオカミ犬”と甲府市動物園長の小林承吉)

 

甲斐犬はオオカミの子孫、という人が多い。 これに対して獣医学者でもある甲斐犬愛護会会長の小林君男は「形態学的にみると甲斐犬は狼特有の狼爪(ろうそう)舌斑(ぜっぱん)をしばしば見ることができるが、しかしオオカミと犬とは別種なものと考えた方が良い」と説明している。 しかし、甲斐犬愛好家の間にはオオカミ子孫説が根強い。小林はその理由について「戦前、父(承吉)が甲斐犬と満州オオカミの後輩に成功、世界的にも珍しいオオカミ犬をつくり出したことがオオカミ説を増殖させているのかもしれない」と言う。 甲府市立動物園長の小林承吉は昭和十六年、当時、動物園で飼っていた満州オオカミのメスと甲斐犬のオスを交配さた。 満州オオカミの一緒のオリで飼育出来た犬は甲斐犬だけであった。 その結果、オオカミからオス一匹とメス三匹の「オオカミ犬が生まれた、うちメス一匹は約一週間後に死に残る三匹は園内で成長した。 この交配の成功は動物学会でも画期的なものとして注目された。 承吉はその年の十二月、東京・上野公園産業会館で開かれた第十回日本犬博覧会に招待され、学術報告をした。 その後も甲府市立動物園のオオカミ犬は学会の興味の中心になるはずだった。 しかし、時期が悪かった。オオカミ犬誕生のと同じ年十二月八日、日本軍の真珠湾攻撃で第二次世界大戦が始まってしまったのである。 日本軍が快進撃を続けているしばらくの間は良かったが、戦局が暗転、食糧不足や日本本土の空襲が始まると動物たちにも受難の時代がやってきた。 もっとも、この受難の兆しは昭和十五年ごろである。 当時の代議士の中には「この非常時に犬猫を飼うとは何事だ」と犬猫撲殺論を唱えるなど、動物たちにとっては迷惑千万の時代に入った。 狂気のような犬猫撲殺論で戦士王の終局近くには愛すべき動物たちは代用食糧になった。 昭和十九年、空襲でオリが破れ、猛獣が逃げたら危険であることを理由に全国の動物園にと殺令が出た。 このと殺令を検討するため、兵庫県神戸市で開かれた全国動物園長会議に出席した小林承吉は「オリが破壊するほどの爆撃を受けたら、どんな猛獣も即死するはずだ」と反対したグループの一人だった。 しかし、日本の動物園のすべての動物が薬殺や撲殺の運命をたどった。 学会の注目を浴びた甲府市立動物園のオオカミ犬も例外ではなかった。 小林君男は「当時、殺した猛獣は埋めることになっていた。だが実際は食糧難だったため、ほとんどが人間の胃袋に入ったという。 私の聞くところではオオカミ犬も食糧になったようだ」と語っている。 この時代に甲斐犬と一緒に天然記念物に指定された日本犬は雑種化したり、絶滅していった。 北陸地方の越の犬や岐阜の美濃柴犬は完全に滅んだ一例である。 甲斐犬もさまざまな迫害を受けた。しかし甲斐犬愛護会の特徴でもあった有力者、名士たちの力が強く、ほかの日本犬と比べて被害は少なかった。 オオカミ犬の受難は人間の身勝手さを証明するとともに、いまも甲斐犬のオオカミ子孫説につながっている。 (敬称略)