甲斐犬物語 8

甲斐犬物語 8

駅員が勝手に解釈? 忠犬説に元教授が異論 山梨日日新聞「甲斐犬物語 8」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。 東京・国営渋谷駅前で雑踏を見つめる忠犬ハチ公像   元電気通信大教授で哲学者の高橋庄治(74)(東京都世田谷区成城在住)は山梨にゆかりはないが、大の甲斐犬ファンで、「甲斐犬を飼うというよりも、その性格のとりこになった」と、さえ言う。 高橋が甲斐犬を飼うようになった理由がふるっていて、最初は秋田犬を飼おうと考えたが、「忠犬ハチ公」の施設に疑問を感じて辞めた。ひょんなことから甲斐犬を手に入れ、それに病みつきなったというのである。「忠犬ハチ公」はは言うまでもなく東京・渋谷駅前で銅像になった秋田犬である。 このハチは大正時代、渋谷に住んでいた東京帝国大(現東京大)農学部教授・上野栄三郎の愛犬で、主人である上野の出・退勤時には必ず渋谷駅まで送り迎えしていた。 大正十四年、上野は教壇で倒れ、帰らぬ人となった。 主人思いのハチは上野の死後も毎日、決まった時間渋谷駅に姿を見せ、昭和十一年死ぬまで亡き主人を忘れなかった。 この様子を見ていた駅員が感激してハチの銅像を建てた。 忠犬ハチにまつわる言い伝えである。 ところが高橋はハチ公忠犬説にまっこうから異を唱える。 しかも、その異論は客観的なものである。 高橋は学生時代、ハチの飼い主である上野英三郎の自宅の隣に下宿していた。 当時の思い出を「上野さんのお宅は、まえの方が白木の板べいでかこってあり、問から玄関までの間に砂利がしきつめてあって、庭いっぱいに桜が植えてありました。(中略) この庭の桜の木の下の砂利のところに、白っぽい一頭の秋田犬が、はなしがいにしてあって、よく、ねそべっていました。 上野さんのお宅のかたが”ハチ”とよんでいられたので私もその犬の名まえを、しぜんに、おぼえてしまいました」と書き留めている。 高橋は渋谷の街をぶらついているハチにしばしば出会い、ハチも高橋に気づいて尾を振ることがあった。 その年の七月、高橋はハチの主人・上野英三郎の急死を知る。 その後も渋谷の街をぶらついているハチを見かけた。 主人の生前と同じようだった。 それがハチという秋田犬に対する記憶だった。 それから約十二年後、高橋は親せきの子供を通じて、ハチが忠犬ハチ公として銅像になり、小学校の教科書にまで載っていることを知って驚き、同時に疑問を持った。 教科書には「いつも決まった時間に主人を駅まで迎えに行く」とあるが、当時の上野は大学教授だったので、出勤も帰宅も不規則だった。 そのころ高橋も渋谷駅を利用していた。 しかし、ハチは主人の出勤、帰宅に関係ない時間帯に駅前をぶらぶらしていた。 高橋は「ハチ公が駅のまわりをぶらぶらしているのを見て、駅員が勝手に解釈したのではないだろうか」と言う。 さらに「一歩譲って、本当に主人を迎えに行ったとしても、ハチは主人の死を知らなかったことになる」と結論づけ 「甲斐犬は自分の主人が死んだことを知ることができるようで、食べものも、食べなくなって、主人のあとを追って死んでいくこともある」 とハチ公と甲斐犬をオーバーラップさせる。 「自分の主人の死を感知できなかったハチは日本犬としては駄もの」とまで断言する。 高橋の忠犬ハチ公を通しての甲斐犬論はなおも続く。 (敬称略)