甲斐犬物語 6

甲斐犬物語 6

昭和九年に正式指定 実った愛護会員の努力 山梨日日新聞「甲斐犬物語 6」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。

記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。

昭和十三年、県と甲斐犬愛護会共済で開いた第六回甲斐犬展 天然記念物指定により、甲斐犬の評価は高まり、 万国旗が飾られた会場には一般市民も押しかけた。

 

会長の斉藤弘吉を甲府に招いた。 斉藤は日本犬保存運動の中心的役割を果たし、昭和六年に秋田犬が日本犬として初めて国の天然記念物の指定を受けたときの原動力として活躍した。 昭和七年五月、前年から甲斐日本犬の天然記念物指定への運動に乗り出した愛護会は日本犬保存会会長の斉藤弘吉を甲府に招いた。 斉藤は日本犬保存運動の中心的役割を果たし、昭和六年に秋田犬が国の天然記念物指定受けたときの原動力として活躍した。 斉藤は五月二日、今井新造らの案内で、甲斐日本犬の宝庫芦安村へ足を踏み入れた。 この時の様子は斉藤自らが日本犬保存会会誌第1巻に「甲斐虎毛犬調査報告」として詳しく記述している。 現地調査は二年前に甲府地検次席検事の安達太助が歩いたときとほぼ同じルートであった。 甲府から車で鰍沢町を経由して粟倉村(現南巨摩郡身延町下山)に入り、そこからトロッコを使って新倉村(現南巨摩郡早川町)へ向かった。 調査は芦安村を中心に二日間にわたって行い、各村に全面的な協力で原産地の甲斐日本犬をじっくり観察した。 斉藤は途中、自然の中を駆け回る放し飼いの犬を見て「仙丈、白根、赤石の諸白嶺、灰色の岸壁、白泡を立てて流れる奔流。 実に美しい静寂な影色であった。 黒虎毛はこの間を飛鳥のごとく、かけ走り、飛び下り、この犬はこの山で観察してこその感をつくづく思う」と大いに感激した。 そして「全国中、かくのごとく一定の鹿犬体型を整え、一定毛色を呈し、固定的な繁殖をなしおる所は他に殆どないといって過言ではないだろう」と甲斐日本犬が天然記念物級であることを断言した。 甲斐日本犬愛護会は半年後の十一月六日、東京・銀座の百貨店「松屋」の屋上で開かれた第一回日本犬展覧会に甲斐日本犬を出陳した。 出陳犬数は全部で四十頭だったが、このうち甲斐日本犬は実に二十七頭(秋田犬三頭、その他二十頭)を占め、愛護会の意気込みをのぞかせた。 それというのも同展覧会の審査委員長は文部省の天然記念物調査員でもある理学博士鈴木外岐雄が担当していたからだ。 選び抜かれた甲斐日本犬はここでも絶賛され、特別賞を受けた。 展覧会に出席した甲斐日本犬愛護会常任理事の小林承吉は自著「甲斐日本犬記」に「鈴木氏の激励を受け”当局(文部省)においても保存方法を講ずる”との言質を受け、天然記念物指定の確信を得たり」と喜びを語っている。 その後の手順はトントン拍子に進んだ。 昭和八年、愛護会の事業計画として文部省に正式に天然記念物指定を申請することを決定。 同年四月、第一回甲斐日本犬展を開き、将来の血統維持に備え、推奨犬十二頭を選んで基礎犬と決定した。 六月十日に東京から鈴木が来甲する。 会長の今井新造以下、県幹部や県内の名士が勢ぞろいしての大歓迎に鈴木も満足し「決定は確実」と太鼓判を押した。 天然記念物指定に当たっては「【甲斐日本犬】でなく、【甲斐犬】が良い。それも【甲斐いぬ】ではなく【甲斐けん】と呼んだ方がよい」と妹妹した。 「甲斐いぬ」では「飼い犬」とまぎらわしくなるというのがりゆうである(秋田犬の正式呼称は秋田いぬ)。 翌年昭和九年一月二十日、甲斐犬は正式に国の天然記念物に決定した。 ちなみに時の文部省大臣は鳩山一郎だった。 「山犬」「地犬」などと呼ばれた山梨の在来犬はこの日から「天然記念物 甲斐犬」として、押しも押されぬ存在となった。 (敬称略)