甲斐犬物語 2

甲斐犬物語 2

犬好きが甲府で遭遇 新種探しへ”二人三脚” 山梨日日新聞「甲斐犬物語 2」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。 生後3カ月の甲斐犬。いたずら盛だが、既に甲斐犬とくゆうの鋭い動作を見せる (中巨摩郡玉穂むら成島、早川源一さん飼育)

昭和4年3月、まだ40歳を過ぎたばかりのの検事が横浜地検から甲府地検に赴任した。 後に甲斐犬愛護会の初代会長となる次席検事の安達太助である。 当時の検事といえば地方都市に過ぎない甲府市民にとっては近寄りがたい存在でもあった。 ところが安達は、人間味のある趣味を持ち、それを通して市民の中に溶け込んでいった。 安達は自他共に認める犬好きだったのである。 昭和9年、甲斐犬が天然記念物に指定されたことを記念した山梨日日新聞社の「甲斐犬特集号」に犬好きの理由を「君はなぜ犬が好きか」と聞く人があったなら「僕は好きだから好きなのだ」と答えるより外はない。 (中略)子供の時から無条件で犬が好きであったが、反対に猫は嫌いであった」と書いている。 しかも単純に犬を可愛がるだけではなく、犬に対する知識も本格的だった。 特に我が国の伝統的犬種であるの日本犬を愛していた。 犬好きの安達は横浜時代からわが国の犬事情に不満を抱いていた。 その不満は愛犬家の主流が洋犬、つまり海外から輸入された犬だったからである。 三百年にわたる鎖国が解かれ、明治初期の風潮が日本を覆い、愛犬家の間でさえ洋犬が最高のものとされた。 安達が愛する日本犬は大正の世に入っても不遇で、大都市などでは街角でも日本犬の姿は見ることができなかった。 前任地の横浜もおなじで消えゆく日本犬に心を痛めていた。 そんな時、横浜から甲府へ転任が決まった。 横浜から甲府への移動はポスト的には不満かもしれない。 ところが「山梨に行けばまだ優秀な日本犬に遭遇できるかもしれない」と犬探しに胸をときめかせた。 安達が腕まくりの意気込みで赴任した甲府には心強いアドバイザーがいた。 甲府市立動物園の園長の小林承吉である。 同動物園は大正八年、上野(東京)、京都動物園に次いで全国でも三番目に開園した歴史ある動物園でもある。 小林は東八代郡八代町出身で、東京・麻生獣医大で獣医学を学び、甲府駅前で家畜病院を開業、園長就任前は同動物園の嘱託獣医を担当していた。 安達の甲府不妊以前から、時折、病院に持ち込まれる虎毛の日本犬に興味を抱いていた。 そして南アルプスを中心とする県内の猟師たちが飼っていた優秀な猟犬とオーバーラップさせるまで「神秘の犬」の原産地に着眼していた。 赴任当初の安達は、もちろん小林の存在を知らなかった。 しかし甲府に赴任して間もなく、甲府市内で探し求めていた新種の日本犬と遭遇、小林に協力を求める。 この時からたりの目指す犬が一致、後に甲斐犬と命名される甲斐の日本犬探しがスタートする。 (敬称略)